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Like The Floating Moon pt.2

音楽レビュー、読んだ本、ひとりごと。記事を書く時の「冗長さ」と書かない時の「やる気の無さ」の落差が非常に激しいブログです。

2014年ベストアルバム

(YouTubeの埋め込みが15もあります。ページが凄く重いですがご了承ください。)

さてさて、今年のベストです。日付を見ればおわかりかと思いますが、かなりギリギリまで迷いました。その挙げ句トップ10ではなくなぜかトップ15での発表です。全体的にプログレ、メタル、インディー、ポスト系などなど、浅く狭くですがいろいろ聞けたかなと思います。

ギリギリで書き上げたので文章が整ってなかったり汚いところもありますがお許しください。それではどうぞ。(レビュー、コメントは10位以降) 

King Crimson - Three of a Perfect Pair

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最近はKing Crimsonをよく聴いてます。とりわけその中でも、80年代のいわゆる「Dicipline3部作」が好きになってきました。
80年代のキングクリムゾンはかつて彼らが持っていたロマンティシズムやメタリックな重さを排し、ミニマムなポリリズムや音響的な効果、そしてポップなメロディーの追求を進めていきました。ある意味で現在のアンビエントやポストロックやマスロックといったジャンルを先取りした音楽とも言えるかもしれません。

そんな彼らの「Dicipline3部作」の中で最もポップで、また最も尖っているのが、3部作の最後を飾るこの「Three of a Perfect Pair」(1984年)だと思います。

前半部(#1~#4)ではクリムゾン史上最もポップとも言える歌モノ路線の曲が続きます。Dicipline時代を象徴するメンバー、エイドリアン・ブリュー(Gt)の本領発揮といったところでしょうか。
ただやはりそこはクリムゾン。ポップというだけではなく、浮遊感があり相当にひねくれたメロディーが印象的です。#4「Man With A Open Heart」のイントロの歌を初めて聴いたときは「なんか不思議でクセになるメロディーだなぁ」と思いました。#2「Model Man」のサビなんかは70年代のようなメロウさもありますね。

そして後半(#5~#9)。このアルバムを聴き始めた当初はこの「無機質・硬質・難解」な音楽がどうも理解できませんでした。(こういう80年代ニューウェーブに特徴的な硬質な感じが苦手だったのが一因だと思います。)
でも、色々な音楽に浅く広くですが触れていった現在だと、むしろこの前衛的な感覚が癖になってきます。むしろここからがこのアルバムの醍醐味と言っていいでしょう。

#5「Nuages」での幻想的なアンビエントから、ロボットで制御された巨大な無人工場のような緻密さを感じさせるインダストリアル曲#6「Industry」、そしてなだれ込むように#7「Dig Me」に至る流れなんか最高です。
特に「Dig Me」。奇妙に捻れたテーマが繰り返されるフリージャズ的なパートと、サビの突き抜けるようなポップ感の対比が凄くかっこいい。ブルーフォードのドラムの乱れ打ちとそれに応酬する他楽器の演奏がとにかく巧いですね。

 (因みに、最近「Bill Bruford」はカタカナ表記で「ブラッフォード」ではなく「ブルーフォード」って表記することに初めて気付きました。こういうのややこしいですね…w)

70年代のクリムゾン(特に「太陽と戦慄」以降)は、「インプロでは敵なし」と言えるほどの超絶的バンドでしたが、80年代も負けてませんね。むしろ先進性という面ではさらに進化しているのでは、とも思います。殆ど古さを感じさせません。

そして最後の#9「Lark's Tongue in Aspic Part III」。あの傑作「太陽と戦慄」のパート3です。単体で聴くとそこかしこに70年代のクリムゾンのようなフィーリングがあって悪くない曲なんですが、さすがにあの得体の知れない凄みや迫力を湛えていたパート1や2に比べると分が悪いです。妙にあっさりしてますね。
(この曲も、ライブ盤「Abscent Lovers」に収録されたバージョンだと結構メタリックで迫力ある演奏に化けます。そっちのバージョンは結構好きなんですが…)

「Three of A Perfect Pair」。このバンドのポップな「オモテ」とアヴァンギャルドな「ウラ」を手っとり早く体験でき、まさに80年代クリムゾンの集大成とも言える内容です。個人的には同時代のYMOのアルバム「テクノデリック」あたりに通じる感じも受けます。

アンビエントクラウトロックが好きな方にはこの前の作品「Beat」もオススメです。この作品とはまた違って、このバンドのミニマムな側面を味わえます。

 


King Crimson - Man with an Open Heart - YouTube

 

Ornette Coleman - At The Golden Circle, Vol. 1

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ピカソジャクソン・ポロックの絵画は素人目に見るとただの子供のラクガキだったり絵の具を適当にぶちまけたようにしか見えませんが、そういった絵画も今日では「芸術」として確固たる地位を確立しています。また、ケージなどの前衛音楽家はノイズや無音といった「音楽でない」とされていたものの中から「音楽」を見いだしました。そして今日では、EDMのようなノイズ的要素を効果的に用いた音楽が当たり前のようにポップミュージックの中に取り込まれるまでになりました。


当然、適当に思うがままに吹いた口笛や鼻歌も「芸術」としての「音楽」になりうるんじゃないか、という考えも出てきてもおかしくないですね?
僕はこのオーネット・コールマンの「At The Golden Circle, Vol. 1」(1965年)を聴いてると、こういうのがまさにそんな「自由奔放な"鼻歌音楽"」なのでは?と思うわけです。

オーネット・コールマンはフリージャズの元祖的な存在として知られています。フリージャズというとコルトレーンやアイラーやジョン・ゾーンの影響からか、どうしても「暗い」「情念的」「わけがわからない」「うるさい」といったイメージがつきまといがちです。好きな人にはそれを浴びるように聴くのがこれまた気持ちいいと思うんですが、普通の音楽リスナーからすればノイズや現代音楽と並んで取っつきづらい音楽です。

しかし、そのフリージャズの始祖であるオーネットの音楽はというと、ちょっとリズムやハーモニーがズレてる感じがして気持ち悪いですが、まさにそのズレがあるゆえに奇妙な美しさやメロディアスさを持っている音楽だと思います。
「フリージャズってことは、オーネットの音楽は『変態』な音楽?」と聞かれればそれは悩むところ。結構メロディアスで聴きやすい要素が多いですし。
でも本当の変態って、自分のことを「俺はヘンタイだー!!」って自称せず、ごく自然に度肝を抜くようなことしてるものです。そういう意味ならオーネットの音楽はまさに根っから自然体の「変態音楽」だと思います。

そんな彼の音楽性をもっとも分かりやすく体験できる作品が、このストックホルムのライブハウス「ゴールデンサークル」でのライブ盤のVol.1です。
楽器編成はアルトサックス、ドラム、べースだけという最小限のトリオ編成。コードの制約から逃れ、自由自在に口笛のように舞うオーネットのアルトを聴いてると自然と楽しくなってきます。

「Faces and Places」で疾走するリズムセクションにプッシュされてアルトを吹きまくるオーネット。この疾走するスリリング感がたまらない。
「European Echoes」では一変、エコーのようなテーマから展開されていく奇妙なメロディー。サックス一本でエコーの音響のような感じを再現しようとする試みはかなり実験的で面白いです。
極めつけは「Dee Dee」。ファニーなテーマとのびのびとしたソロが聴いててこれまた楽しいですね。
最後の「Dawn」。とてもメロウで、かつダークなメロディーを持つバラード。メロディーを覚えられないのにも関わらず、なぜか「綺麗なメロディーだなぁ」と思ってしまう美しさがあります。

コード的なしがらみが無いのにあまりにも自然。出鱈目に吹いてるようにも聞こえてきますが、「自由自在」「天真爛漫」ではあっても「出鱈目」ではないです。思うがままに出鱈目に吹いたらダラダラになってしまってこんなに楽しく美しいソロは出てこないと思います。

リズムセクション、特にドラムの叩きっぷりも最高ですね。よくここまで自由な音楽にピッタリとついて来られるもんだと思います。

そしてこのジャケット。さすがジャケのセンスも抜群のブルーノート!と言うわけではないですが、真っ白な北欧の雪原に立つ3人の姿がとてもカッコいい。寒い冬に外を歩きながら気軽に聴いてもよし、暖かい部屋の中で酒でも飲みながらじっくりと楽しむもよし、といった感じの音楽です。

あ、あとボーナストラックについている「Doughnuts」が「なんでこれがアウトテイクなの?」と思うくらいに聴きやすくカッコいい演奏です。ところでドーナツの「穴」ってドーナツの一部に入るんですかね?

 

(追記)もう少ししたら2014年の年間ベストまとめ始めようと思います。なかなか決まらない…選ぶ作業が楽しいけどつらいです…

 


Ornette Coleman - Faces And Places - YouTube

Convergeの音楽から考える「優れた音楽」の方法論

なんか大層なタイトルがついてますが、普通にConvergeの「All We Love We Leave Behind」(2012年)のレビューです。

 

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カオティックハードコアと言われると僕は結構無知なんですが、やはりDEPやFall Of TroyやBTBAMのような、唐突に変拍子なリフを突っ込んでみたり、ジャジーな感じのソロを挟んでみたり、全く別のジャンル同士を曲の中でぶつけてみたりといったイメージがあります。一言で言えば、いい意味で「露骨」にカオティック。
方法論的に見ると、かつてのプログレッシブロックが持っていた、ロックとしての「暴力性」と異種格闘技的なアヴァンギャルドさを、ハードコアという方法論で現代的にアレンジして確立しているジャンルだと思います。ただし、かつてあったようにフロンティア的に「切り拓く」感じではなく、あくまで「記号的に」参照されているという感じですが。

そんな中のカオティックハードコアのバンドの中でも、Convergeはかなり特殊な立ち位置のバンドじゃないかと思います。一回聞いただけでは先述のバンドに比べると露骨に「カオス」な感じがしません。特にこのアルバム「All We Have We Leave Behind」は、傑作「Jane Doe」にあったようないわゆる「カオティックハードコア」をイメージしていたのもあって、最初聞いたときには割とオーソドックスなハードコアに聞こえました。

ですが、「これこそカオティックハードコアの傑作だ」というレビューを多く見かけるにつけ、それならわかるまで聞き倒してみようという感じで繰り返し聞いてみました。なんとなくではありますが、一つの「ハードコアの作品」として相当傑作なんじゃないかと思い始めてます。

「Aimless Arrow」でのうねるようなグルーヴを作り上げているのが実はあんな奇怪な音階や複雑な変拍子のリフなんて、よく考えると奇跡的なバランス感覚です。
「Tender Abuse」ではカオスでグチャグチャになる一歩手前からDビートになだれ込み、そこからドゥーミーなパートへとごく自然に突入してます。
また、「Sadness Comes Home」でのスラッジ感溢れるリフからタッピングで疾走するフレーズに移行するところも、「Glacial Place」の、シューゲイザーブラックのようなギターを通り抜け、トライバルなパート、次はMastodon的にザクザク刻むパートから突っかかるような変拍子…と続くところも、どう繋げてるんだと思うくらいに自然で、盛り上げ方も巧い。ヘンなことやってるのに、こういったことを「ごく自然に聞こえるように」やってのけてるのはよく聞くと凄いことです。

色んなパートを手を変え品を変える曲はもちろんですが、そんな曲でなくとも繰り返し聞きたくなる「深さ」を感じさせます。たとえば「Coral Blue」のブルージーでサイケな感じとか。怒濤のハードコアの中に突然こんな渋い曲が入るのはなかなかインパクトありますね。
「Sparrow's Fall」や「All We Love We Leave Behind」で聴かせる「泣き」の感覚も、やはり露骨ではなくジワジワと来る渋い感じです。

さて、ここでさんざん「自然」という言葉を多用しましたが、この「自然さ」というのはやはり優れた音楽作品の一体型として大切な要素なんじゃないかと思うんです。
「露骨なカオスさが見えない」というのは、それだけ「記号的」に多くのジャンルを取り込むことから脱却していて、より自分たちの音楽に「自然に」それらをとけ込ませていることじゃないかと思います。


幅広い音楽をより自然にルーツとしてとけ込ませていたバンドといえば、僕の中ではなんといってもLed Zeppelinが思い浮かびます。ブルースを基本にしたハードロックに始まり、ブリティッシュフォークやケルト音楽、インドや中東の民族音楽、さらにはファンクにプログレにレゲエにパンクにサイケにカントリーに…となんでもござれな音楽性。そんな多彩な音楽性を秘めたツェッペリンの音楽性も、不思議と整合感があり、聞いただけで「あ、ツェッペリンだ!」となるカラーがあります。

僕が最近思っていることとして、本当にプログレッシブな音楽を作るバンドは、こういった多くの音楽的要素を「一見してもそれとは気づかれないほどに」巧くとけ込ませている音楽を作るバンドだと思うんです。(僕的にはツェッペリンの他にMiles Davis、Yes、Black SabbathQueenKing Crimson、Mars Volta、RadioheadAphex TwinBoris、Carcass、Brutal Truthあたりのイメージです。)
そうしたルーツの提示の仕方が、これらの音楽に「統一感」と同時に「深さ」を与えています。ニーチェではないですが、「力への意志」は「語られる」ものじゃなくて「示される」ものです。同じように、「こういう音楽を取り込んでますよ」とわざわざ「語られる」のもそれはそれで分かりやすい速効性がありますが、そういった音楽はよほど巧く構築されていないと飽きやすいのも事実。(でも僕はそんな音楽もなかなか好きなのでdisってるわけではありません。あくまで一つの方法論としてです)

自然にそれらの「力」がとけ込んでいて統一感があった方が「読みといていく」深さや楽しみがあります。「能ある鷹は爪を隠す」とも言えますね。

Convergeの「All We Love We Leave Behind」を聴いて、僕はこの「ツェッペリン的なごった煮感」を少しずつですが感じ始めています。ハードコアを基本にして、マスロックにスラッジにシューゲイザーにブルースに、と様々な音楽的要素を取り込みながらも、簡単に聞き手にそれらを悟られないように、あくまで「Convergeの音楽」として統一感を伴って成り立たせている優れた感覚。この音楽は「カオティックだ」と「語る」までもなく「カオティック」であることを「示して」います。

プログレ好きの僕としては、まだまだどうしても「この音楽にこんな要素が!」というものを見つけることに楽しみを見いだしがちなところもあると思いますが、「多用な要素」はあくまでも優れた音楽を作り出す「手段」であって、それ自体は「目的」ではありません。(この「手段」と「目的」を倒錯してつまらなくなっている音楽のなんと多いことか…)

まだまだ木を見て森を見ずだなぁと感じる次第。頭の中にジャンルを並べるような視点も、音楽を楽しみ、語る「指針」としてはもちろん大切ですが、それだけに捕らわれない楽しみ方、語り方も身につけたいな…と感じてます。

 

加えて、ロックの中に新しい動きが出にくくなっている現在、新たなジャンルの動きを創りだすのはこういった「ジャンル間の掛け合わせ」がメインになってくると思います。そういった時流の中、いかにして古きものから新しいものを生み出す「フロンティア」を見つけ出せるか。僕はその指針として、たとえばこのConvergeだったり、先にレビューで取り上げたOGRE YOU ASSHOLEの近年の作品(こちらに「ペーパークラフト」のレビューもあります)だったりがヒントになりうるのでは、と思ってます。

 


Converge - "Aimless Arrow" - YouTube

OGRE YOU ASSHOLE - ペーパークラフト

しばらくあっちの方のレビューブログ(Like The Floating Moon)は更新を止めてました。ちょっとレビューの方法などに思うところがあったので…
ということで、心機一転、はてなの方にブログを移動しました。
こっちでは音楽レビューだけではなく読んだ本やマンガの感想、日記とかもぼちぼち載せていこうかと思います。

 

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このブログでのレビュー一発目は日本のインディーロックバンド、OGRE YOU ASSHOLEの7thアルバムの「ペーパークラフト」(2014年)です。
普段僕はこういうインディーロック系はあまり聴かないんですが(メタルとかプログレ好きマンだからか、どうもああいう乾いた感じとかガレージ感とかスノッブな感じ(偏見含む)がニガテなんです)、去年何気なくレンタルでジャケ借りした5thアルバム「homely」があまりにも僕好みのサイケでプログレな作風で驚きました。
クラウトロックアンビエントに近いミニマムな酩酊感、時折入るホーンセクションやメロウな歌メロから感じるAOR的な質感、コンセプト的なものを感じる抽象的世界観。
エレピやメロトロンやオルガンなどのヴィンテージ的な機材を効果的に使いながらも、決して懐古趣味に陥らない乾いた現代性もあります。
聞けばその「homely」から音楽性が見事に「化けた」バンドらしく、まだそれ以前のアルバムは聴けてないもののそれ以降注目してきました。

今作は「homely」「100年後」に続くオウガ流サイケロック路線の第3作目。
本作のキモは、やはり無機的な「陶酔感」と有機的な「メロウさ」の対比でしょう。
今作のコンセプトも関係してか、これまで以上に音数少なくミニマムな曲や演奏で、「homely」以降のアルバムでは一番「無機質性」「虚しさ」が際立ってる印象です。
しかし、やはりメロウな歌メロや生楽器のアンサンブルが全体を支えています。無機質なリフレインの合間に切ない歌やサックスやメロトロンの旋律が現れるのがいい対比になってて、それが凄く印象に残りますね。

初っ端の「他人の夢」の転調する部分の歌メロからしてもうカタルシス全開で泣けます。歌われている歌詞は、他人の欲望の中で生きることしかできない人間の残酷な運命についてでしょうか。ジャック・ラカンの「人間の欲望は他者の欲望である」のテーゼを彷彿とさせます。
「見えないルール」では一変して冷めたファンク感が支配しますが、終盤にポストパンク的に暴れまわるギターが登場します。見えないルールに例えられた「空気」などの閉塞感をぶち壊すことを暗喩してるんでしょうか?
「いつかの旅行」は初期のCanを彷彿とさせる淡々としたリズムマシンの演奏に、ボサノヴァ風のアコギが乗ってます。ボーカルも遠くから聞こえてくる感じのエフェクトがかけられていて、一聴するとかなりスカスカの音なんですが、それがまたこの歌詞の示す曖昧な世界を引き立たせててますね。
そして個人的に本作のキラーチューン、「ムダがないって素晴らしい」。曲名通りムダのないミニマムな印象を受ける曲ですが、バックに鳴っているパーカッションの音は非常に豊かでトライバルな感じがします。このパーカッションの音はなかなかクセになりますね。無機質なパーカッションの波の中でAORみたいなスムーズな質感の歌メロが乗ります。
淡々とした「ちょっとの後悔」でも最後には泣きのメロトロンが出てきます。やはりこういったコントラストの聞かせ方が凄く上手く印象的。
エコーするギターをバックに無機質な調子でのポエトリーリーディングが流れる「ペーパークラフト」。このアルバムのコンセプトを如実に表しています。
「話しかけても、横に回ればただの線」。普段我々が「在る」と思っているすべての物や人は結局ハリボテのように中身のない「紙の街」、「紙の家」、「紙の人」に過ぎないんでしょうか?
最後の「誰もいない」はイントロから寄り添うサックスが印象的で、本当に切なくムーディーなメロディーの曲です。
最後は「homely」の冒頭のトラックの「ロープ」のSEが流れて終了。3作合わせてのコンセプト作ってことですね。

いやー、音楽的にも凄く自分好みなんですが、普段歌詞を聴かない僕もこのアルバムの歌詞は凄く印象に残りました。オウガを聴き始めた時はあまり好きではなかった甘い感じのボーカルも、この作品の諦観のような世界に上手くマッチしててちょっと印象も変わった感じです。
クラウトロックプログレを彷彿とさせる温かな質感もいい。自分の中では年間ベスト入りがもう決定してます。

 


OGRE YOU ASSHOLE - ムダがないって素晴らしい - YouTube

「可視化」「顕性化」の大切さ

数日前の深夜、SkypeTwitterのフォロワーの相談事に乗ってた時に色々とアドバイスしてたんだけれども、その時に気づいたことをメモっておく。「可視化」って大切なんだなーという話。この話はもしかしたら当たり前すぎてかなり薄っぺらい話かもしれないけれども、まだまだ未熟な大学生の自分にとってかなりの発見だと思ったので書いておこうと思った次第。

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身の丈に合った生き方?

(3/12に一部訂正の上で更新)

先日、「文化資本」とやらについて取り上げられている本を読んだ。

読んでみたらずーっと何かもやもやするものが残ってしまったのでこの記事に書いておくことにする。

文化資本」というのは・・・ここでwikipedia先生に登場していただきます(投げやり)

文化資本(英語: cultural capital、仏語: le capital culturel)とは、社会学における学術用語(概念)の一つであり、金銭によるもの以外の、学歴や文化的素養といった個人的資産を指す。フランスの社会学ピエール・ブルデューによって提唱されて以来、現在に至るまで幅広い支持を受けている。社会階層間の流動性を高める上では、単なる経済支援よりも重視しなければならない場合もある。

 とある。要は、「上位クラスの家庭の子供は、音楽や絵画などの芸術に対する審美眼が優れていて、教養も豊富で、ふるまい方も上品である。」とかいうアレである。

 

その本には確か「エリートは生まれてからの環境からして持ってる【文化資本】が凡人とは違うんだから、凡人のあなた達は無理せずに身の丈にあった生き方をしなさい。勝ち組とか負け組とか気にせず、身の丈にあった生き方をしたほうが幸せでしょ?」とかいうことが書いてあった気がする。ずいぶん前に読んだから、あまりに大雑把で曖昧な感じにまとめてしまったけれども。

 

この「身の丈にあった生き方をしなさい」というのが妙に引っかかるわけだ。

確かに、上の方の「ふつう」を見ると「自分なんて所詮こんな程度だったのか」と意気消沈してしまうし、下の方の「ふつう」を見ると「なんだ、自分はこんなもんでいいんだw」と妥協し堕落気味になってしまう。ということで、自分を測るのは自分の属している階層の「ふつう」のものさしで測るのが一番なわけで、それに越したことはない。その点であれば、「身の丈にあった生き方をしたほうが幸せ」という考えもわかる。

 

だが、現実的に考えて、自分の階層の中の物差しだけで測れる、いわば「井の中の蛙」でいられるほどの環境がどれほどあるだろうか?

今の時代、インターネットを使えば様々な階層、様々な趣味、様々な考えの人たちが即座に繋がることができる。ある程度ネットを触っていくと、「井の中の蛙」でいることは許されなくなっていく。また、大学への進学など、自分の元々いた環境から離れることで同じような状況になることもあるだろう。

どこかの記事で読んだが、自分の層とは違う層の「ふつう」を目にしてしまった時、自分の「ふつう」の基準との軋轢でカルチャーショックのような衝撃を受けるらしい。こうして、他人と自分を比べて、そのたびに自分の「文化資本の欠如」というものに次第にコンプレックスを募らせていくことになる。

僕自身がかなりコンプレックスの塊ということもあるが、「もっと早く知っておけばよかった…自分はまだまだだなぁ…」と後悔したことは数知れない。少なくとも僕はそうだ。知っているか知らないかによって物の見方や価値観に影響するものも数多くある。そうしてそれらが少しずつ積み重なって、「文化資本」となり、やがてその「文化資本」は階層間の明確な考え方/価値観の違いとして表出してくる。そのギャップがコンプレックスや劣等感を生み出すのである。

そんな中で「最初の文化資本からして違うんだから上の方は諦めなさい」である。全くもって理想論的な意見だと言わざるおえない。

留年した自分がこんなことを言うのもなんだが、芸術にしろ文学にしろ学問にしろ、自ら率先して」行う「知識の獲得」とは、すなわち「文化資本の【補充】」であり、自らの階層を少しずつ上のレベルに引き上げ、価値観をその知識のベクトルに向けて変容させる(もちろん、獲得するものによっては引き下げられることもありうるかもしれない)ものだと僕は信じたい。

そうでなければ、趣味や学問を含めた「知識の獲得」は単なる「コンプレックスの埋め合わせ」という、さもしい目的に終わってしまう結末になることになるから、(そしてそんな結末になるのが自分は断じて許せないから)、そう言わざるおえないのだ。

ここで「自ら率先して」と強調したのはもちろん理由がある。自分の興味のない(興味を持つ可能性が低い)分野についての知識を獲得しても、それは殆ど自分にとって意味のないことだからだ。重要なのは、自分の感性に一致した「自らの血肉たりうる知識」をいかに獲得するかということにあると思う。

たとえば、サブカル好きや一部の音楽好きによくある「そのジャンルが好きなのではなく、『そのジャンルが好きな自分が好き』」という状態。この場合だと、獲得された知識は「文化資本」になりうることなく、まさに「自らのコンプレックスの埋め合わせ」に終始してしまう。もしくは「限定されたコミュニティ内での慣れ合い(『コミュニケーション』ではない)のための手段」か。

彼らにとって、自分の好きなジャンルの地位を上げることはコンプレックスを埋めて自らの文化的階層を向上させることに繋がるため(実際にはそう錯覚しているだけだが)、敢えて外部に「敵」を作り、その牙城を強固なものにしようとする。音楽ジャンル間の論争(「ロキノン対メタル」など)はまさにこの構図から生まれたものだと思う。

自分も一時期はこういった思考に囚われてしまっていたが、客観的に見るとこの通り不毛なものである。自分の感性に合ったものを素直に摂取して、その過程で視野や価値観を広げていくという過程が重要であり、間違っても知識の獲得の目標を『文化的階層を上げること自体を目的にする』というような履き違えをしてはいけない。

もちろん、一度摂取しただけではなかなか理解できないという知識もあるだろう。自分なりにピンとくるまで何度も接し続けると感性が少しずつ広がるということもあるが、どうしても合わない場合、やはりそこから潔く身を引くことも必要だと思う。でなければ、大して理解もできず感性も合わないのにその知識に固執するようになり、やがて勘違いの末に先ほどのような結末に遭うかもしれない。

 

話が脱線した。本題の「身の丈にあった生き方」についてだが、そもそも、エリート層にとって「下々の者が各々の場所に安住し、各々の基準で満足している」という状況ほど美味しいものはないと思う。彼らはそこに満足して安住しているわけだから、自らの牙城を揺るがされる下克上の心配だって無い。

そういったことを考えると、「身の丈にあった基準で満足しなさい」という文句は、ヒエラルキーを固定化しようとする知識人始めとするエリート層の甘い罠なのかもしれないな、とか中二臭いことを考えたり。

 

まあ、常に自己否定しながら上へ上へって目指すのも疲れるし、そういう意味ではこの意見も単なる理想論の域を出ていないのかもしれない。かと言って適当に毎日を過ごしていると、自分の枠を広げることがないままラクな方へ下の方へと流れてしまう。ほどほどに頑張り、ほどほどに休息するというこのバランスはやはりなかなか難しい。