Like The Floating Moon pt.2

音楽レビュー、読んだ本、ひとりごと。記事を書く時の「冗長さ」と書かない時の「やる気の無さ」の落差が非常に激しいブログです。

身の丈に合った生き方?

(3/12に一部訂正の上で更新)

先日、「文化資本」とやらについて取り上げられている本を読んだ。

読んでみたらずーっと何かもやもやするものが残ってしまったのでこの記事に書いておくことにする。

文化資本」というのは・・・ここでwikipedia先生に登場していただきます(投げやり)

文化資本(英語: cultural capital、仏語: le capital culturel)とは、社会学における学術用語(概念)の一つであり、金銭によるもの以外の、学歴や文化的素養といった個人的資産を指す。フランスの社会学ピエール・ブルデューによって提唱されて以来、現在に至るまで幅広い支持を受けている。社会階層間の流動性を高める上では、単なる経済支援よりも重視しなければならない場合もある。

 とある。要は、「上位クラスの家庭の子供は、音楽や絵画などの芸術に対する審美眼が優れていて、教養も豊富で、ふるまい方も上品である。」とかいうアレである。

 

その本には確か「エリートは生まれてからの環境からして持ってる【文化資本】が凡人とは違うんだから、凡人のあなた達は無理せずに身の丈にあった生き方をしなさい。勝ち組とか負け組とか気にせず、身の丈にあった生き方をしたほうが幸せでしょ?」とかいうことが書いてあった気がする。ずいぶん前に読んだから、あまりに大雑把で曖昧な感じにまとめてしまったけれども。

 

この「身の丈にあった生き方をしなさい」というのが妙に引っかかるわけだ。

確かに、上の方の「ふつう」を見ると「自分なんて所詮こんな程度だったのか」と意気消沈してしまうし、下の方の「ふつう」を見ると「なんだ、自分はこんなもんでいいんだw」と妥協し堕落気味になってしまう。ということで、自分を測るのは自分の属している階層の「ふつう」のものさしで測るのが一番なわけで、それに越したことはない。その点であれば、「身の丈にあった生き方をしたほうが幸せ」という考えもわかる。

 

だが、現実的に考えて、自分の階層の中の物差しだけで測れる、いわば「井の中の蛙」でいられるほどの環境がどれほどあるだろうか?

今の時代、インターネットを使えば様々な階層、様々な趣味、様々な考えの人たちが即座に繋がることができる。ある程度ネットを触っていくと、「井の中の蛙」でいることは許されなくなっていく。また、大学への進学など、自分の元々いた環境から離れることで同じような状況になることもあるだろう。

どこかの記事で読んだが、自分の層とは違う層の「ふつう」を目にしてしまった時、自分の「ふつう」の基準との軋轢でカルチャーショックのような衝撃を受けるらしい。こうして、他人と自分を比べて、そのたびに自分の「文化資本の欠如」というものに次第にコンプレックスを募らせていくことになる。

僕自身がかなりコンプレックスの塊ということもあるが、「もっと早く知っておけばよかった…自分はまだまだだなぁ…」と後悔したことは数知れない。少なくとも僕はそうだ。知っているか知らないかによって物の見方や価値観に影響するものも数多くある。そうしてそれらが少しずつ積み重なって、「文化資本」となり、やがてその「文化資本」は階層間の明確な考え方/価値観の違いとして表出してくる。そのギャップがコンプレックスや劣等感を生み出すのである。

そんな中で「最初の文化資本からして違うんだから上の方は諦めなさい」である。全くもって理想論的な意見だと言わざるおえない。

留年した自分がこんなことを言うのもなんだが、芸術にしろ文学にしろ学問にしろ、自ら率先して」行う「知識の獲得」とは、すなわち「文化資本の【補充】」であり、自らの階層を少しずつ上のレベルに引き上げ、価値観をその知識のベクトルに向けて変容させる(もちろん、獲得するものによっては引き下げられることもありうるかもしれない)ものだと僕は信じたい。

そうでなければ、趣味や学問を含めた「知識の獲得」は単なる「コンプレックスの埋め合わせ」という、さもしい目的に終わってしまう結末になることになるから、(そしてそんな結末になるのが自分は断じて許せないから)、そう言わざるおえないのだ。

ここで「自ら率先して」と強調したのはもちろん理由がある。自分の興味のない(興味を持つ可能性が低い)分野についての知識を獲得しても、それは殆ど自分にとって意味のないことだからだ。重要なのは、自分の感性に一致した「自らの血肉たりうる知識」をいかに獲得するかということにあると思う。

たとえば、サブカル好きや一部の音楽好きによくある「そのジャンルが好きなのではなく、『そのジャンルが好きな自分が好き』」という状態。この場合だと、獲得された知識は「文化資本」になりうることなく、まさに「自らのコンプレックスの埋め合わせ」に終始してしまう。もしくは「限定されたコミュニティ内での慣れ合い(『コミュニケーション』ではない)のための手段」か。

彼らにとって、自分の好きなジャンルの地位を上げることはコンプレックスを埋めて自らの文化的階層を向上させることに繋がるため(実際にはそう錯覚しているだけだが)、敢えて外部に「敵」を作り、その牙城を強固なものにしようとする。音楽ジャンル間の論争(「ロキノン対メタル」など)はまさにこの構図から生まれたものだと思う。

自分も一時期はこういった思考に囚われてしまっていたが、客観的に見るとこの通り不毛なものである。自分の感性に合ったものを素直に摂取して、その過程で視野や価値観を広げていくという過程が重要であり、間違っても知識の獲得の目標を『文化的階層を上げること自体を目的にする』というような履き違えをしてはいけない。

もちろん、一度摂取しただけではなかなか理解できないという知識もあるだろう。自分なりにピンとくるまで何度も接し続けると感性が少しずつ広がるということもあるが、どうしても合わない場合、やはりそこから潔く身を引くことも必要だと思う。でなければ、大して理解もできず感性も合わないのにその知識に固執するようになり、やがて勘違いの末に先ほどのような結末に遭うかもしれない。

 

話が脱線した。本題の「身の丈にあった生き方」についてだが、そもそも、エリート層にとって「下々の者が各々の場所に安住し、各々の基準で満足している」という状況ほど美味しいものはないと思う。彼らはそこに満足して安住しているわけだから、自らの牙城を揺るがされる下克上の心配だって無い。

そういったことを考えると、「身の丈にあった基準で満足しなさい」という文句は、ヒエラルキーを固定化しようとする知識人始めとするエリート層の甘い罠なのかもしれないな、とか中二臭いことを考えたり。

 

まあ、常に自己否定しながら上へ上へって目指すのも疲れるし、そういう意味ではこの意見も単なる理想論の域を出ていないのかもしれない。かと言って適当に毎日を過ごしていると、自分の枠を広げることがないままラクな方へ下の方へと流れてしまう。ほどほどに頑張り、ほどほどに休息するというこのバランスはやはりなかなか難しい。