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Like The Floating Moon pt.2

音楽レビュー、読んだ本、ひとりごと。記事を書く時の「冗長さ」と書かない時の「やる気の無さ」の落差が非常に激しいブログです。

近況報告と、うにゃうにゃした話

 お久しぶりです!えすぶいしーです。(見てた人いたかな…いないよね…)


 前回の記事を「次回の記事に乞うご期待!」という書き方で閉じたにも関わらず、ムダに期間が空いてしまったばかりに、「こんなにブランクが空いた中で続きの記事ってどう書けばいいんだ…」と踏ん切りがつかず更新できずにいました。前回の記事(オーディオ関係)の続きについてですが、近々新しいイヤホンを買う予定なのでそのレビューも兼ねて続きを今度書きます。

 …という言い訳は置いといて。
 だいたい一年ぶりですね。僕はなんとか生きてます。今何をしているのかというと、8月の頭にアメリカ文学系の分野で大学院を受けるつもりで勉強中です。ゼミで学びを磨くにつれて、もっともっとこの学びを深めたい!というように思うようになり、院進を決めました。
 さて、肝心の勉強の方は……恥ずかしながら、「春休みの頃が一番捗っていた」と言いましょうか…。
 先生からすすめられた論文集なども借りてみたものの、未読の作品がほとんどであるため、脳内補完やらWikipediaの助けを借りながら亀の歩みで読むのがやっとです。そういう「条件的な苦しさ」もあることはあるんですが、何より重いのは「精神的な苦しさ」です。
 

 

 僕は今の時期に「学部卒での就活」という選択肢を蹴る以上、そこに「骨を埋める覚悟」は相当に必要だと思っています。しかし僕の場合、そのような「覚悟」は、「大学院に行くほどだから、俺はこの学問に骨を埋められるくらい『好きにならなければならない』!」という義務感に結びつきがちです。そういった義務感はすぐに「強迫観念」になり、そして強迫観念とセットで出てくるのは「それに比べて、今の俺は…ダメダメなんじゃないか…?どうしようもないじゃん…」という卑屈な感情です。このような「義務感」→「強迫観念」→「卑屈」のループはふとしたきっかけで現れます。こうなると毎日じわじわと余計なストレスが溜まっていき、スランプに陥ってしまいます。

 でも、思えば今のこの状況も三年前の留年直前の頃、何もやりたいことが見つからなかった頃と比べれば遥かにマシかもしれません。今は「やりたいこと」がおぼろげながら見つかっているわけです。こんなにも下手な文章を晒しておいて説得力皆無ですが、僕はゼミの中ではかなり高い評価を貰えているとは思います。上で示したように「自己評価」で完結しようとする場合には大抵ろくな事がありません。でも、ちゃんと「外からのフィードバック」を通して評価されている、そして「文学を通して色々と考えることが好き」という自分の気持ちを考えると、やはり僕はここに向いているんじゃないかなと思えるのです。

 


 

 「やりたいこと」でも「やらなきゃ」と思ったその瞬間、「強迫観念」という負の感情を招いてしまうというのが自分の気質の一つなんだ、と最近気づきました。となると、「義務感」を持って苦しくなるよりも、余計な考え事はせずに単純に突っ走っちゃえばいいんだ!と思うわけです。「俺はやりたいことをやりたいからここに行くぞ!」という感じですね。論理もクソもないですが、大切なのは論理ではないわけです。
 ここで、僕が好きな三島由紀夫の言葉からひとつ。(botからですが)

 人間の理性、精神、意志、論理というものは自分が思う以上にとても弱いものです。ちょうど、「ふとした考えがきっかけで、好きなはずのものに触れるのが億劫になってしまう」ほどには。しかし逆に言えば、何も理由を設定せず、ごく自然に行う「習慣」を続ければその弱さは克服しうる、と言えます。まして僕は今までさんざん考えに考えたので、もう自分の「動機付け」のために頭を使うのは十分なはずです。

 というわけで、僕は最近「大学の課題以外で、一日に最低50ページは活字を読むぞ!」という習慣の目標を立てました。(文学系志望にしてはしょぼい目標かもしれませんが…)
 幸いにも積み本・再読したい本はどっさりと溜まってるので、読む本自体にはあまり困っていません。哲学・SF・ラノベ・政治、そしてもちろん純文学など、節操無く色々と読んでます。こういった趣味の範疇の習慣も、間接的には自分の学問的な視点の涵養に生き、直接的にはモチベーションの向上に繋がってきていると実感しています。

 

 「内省」「振り返り」のやり方も気をつける必要があると思います。同じく僕が好きな福田恆存の言葉から一つ。(同じくbotからです)

 今の時期に「考え事」をした時点で、僕の場合はもう「もう一つの別の實在」として離れた視点から捉えてしまいます。落ち着いた時には「客観視」になりうる視点も、落ち込んでいるときは逃避したいがための「他人事」として見る視線になってしまうわけです。

 「深く掘り下げる思考」、「メタな視点」、「レトリックの多用」…こういう考え方は論文とブログとツイッターの本アカでもう結構。感情に押しつぶされそうな時にこれらを自分に当てはめた瞬間、殆どの内省が「他人事として捉えたうえでの詭弁」「逃げのための言い訳」になってしまう、というのは散々経験しています。本当に自省の中に「没入」したいなら、ありのままの自分の今を振り返って、「自分だけを向いて語って噛みしめる」しかないでしょう。

 ツイッターの鍵アカウントも閉じました。「他人に向けてありのままの自意識を晒す」というのも、少し考えてみればとってもとっても不毛なことだと気づいたからです。「内省をしている自分」を意識して「フォロワーに向けて」言葉を発するということは、自分のことを「他人事」として捉えてしまいがちな危険を孕みます。結果、いつまでもぐずぐずと抜け出せないんじゃないかと思うわけです。何より、「ずーーーっと同じことでぐずぐずしている所を人に見られるって、なんて恥ずかしいことなんだ…」という当たり前のことに、もうすぐ5000ツイートというところにしてようやく気づけた、というのもあります。
 しかし、どうしても吐き出したいほどにつらい時ももちろんあります。そういう時の「現在進行形の内省」は、個人的なクラウドメモ帳(Google Keep, Simplenoteとか)に書きなぐることにしました。理想としては、人の目を意識せず、ありのままガーッと書いて、はいおしまい!という感じです。唯一ネット上に出すとなると、こうやって内省の結果まとまった「結論」を「客観的な視点で」書くくらいでしょう。「没入」(内省)の時ではなく、「振り返り」の時にこそ、福田さんが言う「一つの實在から離れて、もう一つの別の實在になる」ということが生きるのかもしれません。

 

 最後に。このブログも、院試の勉強の支障にならない程度に更新を再開させていきたいですね。
 具体的には、「1週間に3記事」は書いていきたいです。文章をまとめる練習というのはもちろん、「定期的に更新する」という「習慣づけ」そのものの練習にしたいな、とも考えてます。そのためには更新が億劫にならないように、こういう長い記事を書くのはなるだけ控えたいな…と思ってるわけですが。


 今回はこんなところで。