Like The Floating Moon pt.2

音楽レビュー、読んだ本、ひとりごと。記事を書く時の「冗長さ」と書かない時の「やる気の無さ」の落差が非常に激しいブログです。

「けものフレンズ」の物語構造を考える (前編)

 今年に入って早くも話題をかっさらったアニメとして、なんといっても「けものフレンズ」が挙げられるのは言うまでもない。あの文句なしの最終回を見終わって以来、「このアニメの何が面白かったのか」ということについて、自分なりに言語化し、記事としてまとめたいと考えていたが、なかなか上手くまとめられずにいた。あの最終回が終わってからはや二週間、情けなくもアライさん以上に遅れたタイミングであるが、この記事ではアニメ「けものフレンズ」を振り返りながら、その「神話的」とも言うべき物語の構造を、「ゆるゆるな日常」の「脱構築」と「シンプルで強靭な神話」への「再構築」という論点から考察していきたいと思う。

 今回は議論の前編として、読み手としての視聴者の受け取り方に注目し、物語の「外側」からその構造を議論していくことを中心とする。なお、本稿には一部に最終回に至るまでのネタバレも多く含まれるので注意のこと。

「不自然」なほどの、その「ゆるさ」

動物たちが人間の美少女の形になった「フレンズ」があふれるジャパリパーク。本作は、ヒトと思われる主人公の「かばんちゃん」とサーバルキャットの「サーバルちゃん」の二人がどったんばったん大騒ぎしながらこのジャパリパークを冒険する3Dアニメである。第一話の「狩りごっこ」のシーンが視聴者に衝撃を与えたように、このアニメは、驚くほどに「ゆるく」「ほんわかな」雰囲気に溢れている。そのあまりの「ゆるさ」が話題になり、「すごーい!」「たのしー!」といったミームがネット上で大流行したのは記憶に新しいところである。「けものフレンズ」は、まるで視聴者もフレンズの一員になって頭が空っぽになるような「癒やし」の感覚にあふれているのだ。このことから、放送開始当初は美少女たちの日常を見て癒やしを求める、所謂「日常系アニメ」であるかのように捉えた視聴者も多かったようだ。
 しかし、このアニメのゆるすぎる雰囲気を見ていくと、どうも「日常系のゆるさ」とは違うという違和感がついて回る。ジャパリパークで暮らすフレンズは、我々視聴者から見ると、あまりに「無防備」で「無邪気」で、「優しすぎる」ように見えるのである。コツメカワウソは「わーい!」と言いながら延々と滑り台を滑り続け、ジャガーは「何の見返りもなしに」サーバルらを乗せて川を渡る役を果たす。ライオンたちとヘラジカたちは「合戦」という形で対立していたが、けが人を出すような戦いは好まず、結局「すっちゃかめっちゃかしても仲良し」である。そして彼女たちは、かばんが(我々人間にとっては当たり前の)知恵を駆使し、さまざまな問題を解決していくたびに「すごーい!」「なにこれなにこれー!」と、純粋な「感情の発露」として驚嘆や感激の声を上げるのである。
 そんなフレンズの「無邪気さ」「ゆるさ」は、視聴者である我々から見るとある意味「現実離れ」した感じに見える。彼女たちは皆、ヒトの形をしていながら、自身ではヒトの文明の産物を扱うことができない。現実的な意味でのヒトではない、いわば「妖精的」な存在である。その純粋さは、現実の社会では付きものである邪念やしがらみをかかえていないことのあらわれであるかのようだ。フレンズは「野生状態で完全に充足したまっさらな人間である」という意味で、ルソーが「人間不平等起源論」で述べる「自然人」を具現化したような存在であるとも言えよう。
 幼児向けアニメならともかく、フレンズの純粋さは深夜アニメにしてはあまりに現実離れするほどに単純化されすぎている。そしてご存知のとおり、この「ゆるさ」「野生性」「純粋性」にはやはり「裏」があり、危ういバランスの上に成り立つものであるということが明らかになっていくのだ。

フレンズを巡る「二律背反」

 まずは、フレンズが暮らす「自然」の「不自然さ」に目が行く。フレンズは自然の中でありのままに生きているように見えるが、フレンズが生きる世界は本当の「自然」ではなく、あくまでジャパリパークという「《人工》のサファリパーク」の内部である。彼女たちの自由な暮らしも、この「ヒトにとって《与えられた》環境」の中で初めて成り立つものである。また、フレンズは元の動物が「サンドスター」と呼ばれる物質のもとで「アニマルガール」になったことで生まれた姿だ。フレンズは性別がもれなくメスであるという設定(*1)があるため、異性を巡っていざこざを起こすようなことはない。また、「ジャパリまん」と呼ばれる完全栄養食が常に供給されているという条件のもとで、食物連鎖ヒエラルキーからも完全に逃れている。このような環境の設定は非常に配慮が行き届いたものであり、我々にはヒトの手が入った「恣意的」なものとして映る。彼女たちが「純粋に」「無邪気に」暮らすことができるこのジャパリパークは、「人工性」という条件の上に成り立っているという意味で、決して「純粋な自然」とは言えないだろう。
 次に、このジャパリパークが、もはや訪れる人間も管理する人間もいない「廃墟」であるという点も重要である。パークがその役目を終えてから、フレンズがヒトという存在自体を完全に忘れ去るほどに長い時間が経過していることを伺わせる描写がそこかしこに散りばめられている。第2話から流れるEDのバックでは、現実に廃園となった遊園地の写真が映し出されるが、これなどは視聴者に向けて作品舞台の「廃墟性」を示すという意味で非常に象徴的である。ツチノコや博士たちなどのヒトの存在を知る数少ないフレンズも、もはやヒトは「絶滅」してしまったと捉えているようだ。フレンズのゆるい日常世界の隙間から、この「ヒトの不在(絶滅?)」「パークの廃墟性」という設定が徐々に現れていくにつれて、視聴者の目に映るけものフレンズの世界は「楽園の日常」から「空虚なポスト・アポカリプス」へと変貌していく。
 そんな空虚な日常の中に、楽園の破壊者として唯一はっきりと登場するのが「セルリアン」の存在である。この全く以て正体が不明である生命体(?)は、感情表現が豊かなフレンズとは対象的に無表情・無言であり、作品世界における異質さが際立っている。セルリアンはフレンズを飲み込んで動物に戻してしまう。動物に戻ったフレンズは記憶が奪われ、フレンズとのコミュニケーションも取ることが不可能になる。セルリアンは「けものはいても、のけものはいない」というフレンズの平穏を、「唯一目に見える形で」引き裂くのだ。この侵略者の存在によって、ジャパリパークのゆるい平和に崩壊の兆候が存在することが暗示される。

「空虚な幸福」の儚さ

 このようにフレンズが謳歌する幸せは、二律背反のきわどいバランスの中で成り立つものだ。彼女たちを「フレンズ」たらしめている「自然な純粋さ」は、あくまで「人工性」の上に成り立つものでしかない。そして、その創造主であるヒトは既に姿を消している。フレンズは「空っぽの大地」の上で、まるでコツメカワウソが延々と滑り台で遊び続けるかのように、その幸せな日常を繰り返している。
 私は第3話あたりから、フレンズの無邪気さの中に、文学的とも言える儚さや美しさを感じ始めていた。彼女たちの幸せな日常、そしてその純粋さは「不穏さ」と隣り合わせの「虚ろな」ものだ。文学的な観点から見れば「けもフレはポスト・アポカリプスSFの系譜にある作品だ」と評する声もあったが、私としてはこの意味で、けものフレンズにはWWI後のアメリカで生まれた「ロスト・ジェネレーション文学」に似た美的感覚もあると考えている。
 フィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」では、ギャツビーが開くパーティーの「どったんばったん大騒ぎ」は、ニヒリスティックな時代の空気によって初めて意味を与えられ、その儚い輝きを与えられている。同様に、「けものフレンズ」においても「《いま・ここ》にある無邪気な幸福」と「《来てしまった・来たるべき》退廃の予兆・世界の謎」が共にあり、双方の側を互いに引き立てているのだ。この幸せな日常は、果たして「永久に」続くのだろうか。変化もなく延々と反復される「たのしー」日常というのも、裏を返せばそれが「これ以上幸せなものにはなりえない」ことを示しているのではないか。
 フレンズのあまりにシンプルな純粋さ、無邪気さは、その裏にある闇の中にぽっかりと浮遊することで、深みのある色合いを与えられる。そして、この「空虚な幸福感」という深さに気づき始めた頃、私はもうすでに「けものフレンズ」の作品世界に没入し始めていたのだ。「『としょかん』とは何か?」「『かばんちゃん』の正体は何なのか?」「なぜヒトがパークから姿を消したのか?」「『セルリアン』とは何か?」―シンプルに「幸せな世界での冒険物語」として見るには、この作品はあまりに裏側が深すぎたのである。

奪われた「神の視点」―Welcome to ようこそ ジャパリパーク!

作品世界を覆う「ゆるさ」によって、皮肉にもそこに潜む裏のプロットの存在が強調される。しかし、この裏のプロットは「ゆるさ」のベールに隠れてしまっていて、明示的に「語られる」ことはない。作品世界をつかむためには、裏側に通じる「隙間」を見つけて、少しずつプロットを拾っていく必要がある。劇で言うところの「ト書き」的な説明が極力省かれているため、視聴者は表のシナリオの「行間を読む」ことを要求される。
 ここで面白いのは、「行間を読む」ためには否が応でも物語世界の内部へと「没入」を強いられるということ、そしてこの真剣に没入を強いられる物語世界が、一見すると非常にシンプルで平和に見えるというギャップである。たとえば、「二人が新しいちほーに向かう」→「悩みを抱えたフレンズと出会う」→「かばんが知恵を使って問題を解決する」という大きな流れが毎話ごとに決まっているという意味では、子供向けアニメの定番という感じを受ける。また、フレンズは皆「美少女」で「悪人が一人もいない」と言う意味で、平和な箱庭的空間でじゃれ合う美少女キャラを眺める日常系アニメにも似た感じもある。これら2つのアニメは「お約束のシナリオ」を安心して眺めるような「神の視点」を通して見ることができるが、「けものフレンズ」の場合は違う。安定しているのはオモテにある枠組みだけであり、我々はここでは物語世界の全体を見渡せる「神の視点」を持つことはできないのである。
 こうして、視聴者はゆるゆるとした雰囲気あふれるジャパリパークの世界の中にそのまま投げ出されるような格好となる。ヒトとしての知恵や洞察力という圧倒的なアドバンテージを以てしても、視聴者は物語世界を「外側から眺める」ということはできない。こうしてかの視聴者は、かばんちゃんと共に「裏側の《断片》」を集めながら世界の謎を解き明かそうとする「考察班」となる。あるいは、いっそのことこの世界に自ら全力で溶け込んでいく者も多いだろう。すなわち、「すっごーい!」「わーい!」「たーのしー!」というシンプルな反応を以て、「世界の《全体》」をひとりの「フレンズ」として味わおうとするのだ。
 「考察班」にしろ「フレンズ」にしろ、アニメ「けものフレンズ」の世界に飛び込む視聴者は皆、「神の視点」を奪われ、その世界の内部に「没入」することを要求される。頭を空っぽにして見ても、しっかりと考察モードで見てもいい。「癒やし」と「知的好奇心」、両方共を見事に同時に満足させることができる、おまけに物語の内部に没入し、文学的な読みを広げることもできる―私はさばんなちほーのような広大な可能性に大きく惹かれ、このアニメにハマったのである。

ひとまずのまとめ

今回は、「けものフレンズ」物語構造の考察の前編として、「日常系的なゆるさ」を保ったまま、そのゆるい世界が脱構築されるという構造を考察した。物語構造から考える「けものフレンズ」の面白さは、「誰もが童心に戻り、シンプルな物語の枠の中に全力で没入することができる」というところにあるのではないかと考える。
 今回は読み手としての視聴者の受け取り方、いわば物語の「外側」から構造を議論した。ここで得た論点を活かして、後編の考察では今作品の「内側」の構造を議論していきたい。具体的には、「けものフレンズ」が持つシンプルだが強靭なシナリオを「神話的な物語構造」として捉えていくことを中心に据えようと考えている。この考察を通して、「フレンズの持つ象徴性」や「セルリアンとは何か」を私なりに考察できればと思う。そして最後に最終回の内容に触れながら、今作品の全体を通した「メッセージ性」について、考察の一端を掴みたいと考えている。

(…次はいつになるだろうか。大学院も始まるし、忙しくなる前に書きあげなきゃな…
あ、そういえばこちらでは報告しそびれてましたが、晴れて大学院生になりました。文学の研究がんばります。今回の記事にしても、春休みにぐーたらしててIQが下がってたのを取り戻すというリハビリも兼ねてます。)

 

参考資料

人間不平等起源論:ルソーの自然人

「けものフレンズ」12話の「引き算の演出効果」の話が、小説のそれと似ている話 - Togetterまとめ